一隅の経営 132
RISHO NEWS229

利昌工業株式会社 取締役名誉会長

利 倉 晄 一

 
    

【 指揮官先頭 】


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 ☆私は1951年、21歳の時に利昌工業に入社しました。私が入社した時、従業員は数十人程度でした。
それから70年間、この会社で働いてまいりました。
 利昌工業は戦時中、軍需工場で海軍の艦船や潜水艦用の絶縁材料をつくっていました。
国家総動員法のもと、あらゆる経済活動が戦争遂行のために行われた時代です。
それが一転、終戦とともに軍がなくなり、唯一のお得意先を失ってしまったわけです。
 そんな時期に入社した私の頭にあった考えは「指揮官先頭」という言葉です。
「我々は指揮官である。指揮官は先頭に立ち、嫌なことも困難なことも、危険なことも自分が先に受け止める」という考え方です。
 現代人には、あまり馴染ない考え方かも知れませんが、この考えをもつ人が多かったからこそ、日本の戦後は繁栄したと思います。
 当時私は、指揮官先頭だ、これから私がこの会社を大きくしてゆく、という思いで、わずかな仲間と一緒に頑張ってまいりました。
 まずやったことは営業です。軍という得意先がなくなったのですから、新しい得意先の開拓のため、東北から北海道、西日本、四国、九州と日本全国を営業でまわりました。他のみんなも指揮官に続けと同じことをしました。
 指揮官が先頭に立つ姿を見て、社員ひとり一人が夢を抱いて自発的に、名古屋や富山、広島へと赴任して営業所をつくり、今日の利昌工業の基礎を築きました。
 当社の6か月にわたる大労働争議が勃発した時、私は26歳でしたが、自ら先頭に立ち、背を向けることなく総評に立ち向かいました。
 皆さん、指揮官先頭の気持ちで頑張りましょう。男性も女性も「自分で解決する」という気持があれば、戦えるはずです。逃げてはいけません。他人に悩みを打ち明けたところで所詮、他人の問題であって解決にはなりません。解決するのは自分自身です。最後まで逃げない、と自分に言い聞かせておれば大丈夫です。
 世の中には、たくさんの困難や辛いことがあると思いますが、頑張って勝ち抜いて下さい。
 私から「指揮官先頭」という言葉をおくります。


(2023年 年頭訓辞より)


【 研究開発の重要性 】

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◆ふたつのショック
☆研究開発の重要性を認識し、私が尼崎工場内に鉄筋コンクリート3階建ての小さな研究所をつくったのは1962年のことです。

 私は当初、研究設備の導入、研究員の養成など、研究開発体制が確立するまでに30年くらいはかかるだろうと計算していました。それが予想以上、結果的には50年以上もかかってしまった理由はふたつあります。
 ひとつは、利昌工業の主力商品であった家電向けのプリント配線板材料の需要が壊滅的な減り方をしたこと。
 いまひとつは、これは当社だけの事情ではなく日本全体の問題ですが、バブルが崩壊し、その後30年以上にわたり日本経済が停滞していることです。
このふたつの大きなショックがあって、研究開発体制の立ち上げは、私の計算より遅れました。しかし、私の構想の集大成として「開発本部棟」が2017年に完成したことで研究開発の体制は、だいたいできたのではないかと思います。
 これを土台にして、利昌工業はこれから益々研究開発を中心とした企業として頑張ってほしいと考えております。

◆試験設備の充実
 さて創業当初に立ち戻ると、利昌工業の場合、研究所というのは、あったようでなかったのです。
当時はまだ、欧米に追いつこう、模倣しようという時代でしたから、自ら新しい商品を開発するというよりは、輸入したものや、自社の商品を試験する装置、あるいは、それらを改良するために、いろいろな実験を試みるという程度の設備があるのみでした。
 尼崎工場の高圧実験室に併設された部屋に、技術部研究課という組織がありましたが、研究所というよりは技術部の下部組織で、人数も少なかったのです。
ただ、当社は発電や送配電に使われる電気絶縁材料からスタートした会社ですから、企業規模の割には、得意先である電力会社や重電機メーカーに比肩する程度の試験装置はもっていました。
 例えば1929年に導入した試験用変圧器は12万ボルト。当時の送電電圧は大都市に向けたものでも、まだ6万ボルトや7万ボルトが主流でした。

 また1953年に導入した衝撃電圧発生装置(インパルス)は105万ボルト。これはその後本格化する27万5千ボルト送電を視野に入れたもので、黒部ダムはまだ工事中でした。

 これらは一例ですが、絶縁材料メーカーとしては、分に過ぎた試験設備をもっていたほうだと思います。

◆分析装置の充実
 それでも、当時は試験装置と実験設備だけで、分析装置などを備えた本格的な研究所が、尼崎工場にできたのは、冒頭に述べたとおり1962年になってからです。
 利昌工業が初めて買った分析装置は、赤外分光光度計でした。机の上にのる程度の小さな分析器でしたが、私はその値段の高さにびっくりしたことを覚えています。
 とはいえ、その後もいろいろな分析装置を買いました。また図書も、必要なものはどんどん買いなさいと指示し、研究所からあがってくる設備や図書の稟議は拒否したことはありません。
 といいますのは、ある程度の設備なり態勢なりは、早く調える必要があると考えていたからです。

 ある時は電子顕微鏡を買いたいという稟議書もあがってきました。最初は10万倍、その次は30万倍のもので、値段の高さにいささか驚きましたが、そこまでのものが欲しい、そしてそれを使いこなすというのは、当社の研究開発のレベルが上がってきたものと解釈して、買いました。
 その後も予算の許す範囲で、多くの分析機械、実験・試験設備を調えさせました。それは研究員の意欲を高めるために必要なことでした。
 また、プリント配線板材料を試作するための小型のプレスや、プリプレグをつくるための塗布機も、研究所の別館の中に設けました。

◆50年かけて
 さて、設備はお金を出せば買い集めることはできますが、それを使いこなせる人材を養成するには相当の時間がかかるだろうと思いました。
途中で辞める人も出てくるでしょうし、いろいろな問題を考えると30年にはなるだろうと予想していたわけです。
 大きな企業なら数年でできるかもしれませんが、われわれ程度の規模の会社が、設備も人もゼロから出発するわけですから。
 毎年、設備に投資できる金額は限られていますし、人材を集めるにしても、知名度の低い利昌工業が理系の大学をまわって募集するわけで、それなりの時間がかかると踏んだのです。
 しかし、結果50年以上かかりました。
◆化学技術研究所・電気技術研究所
 最初の小さな研究所の次に、鉄筋5階建て、延べ面積が1100平方メートルの「化学技術研究所」(現・第二研究開発センター)を作りました(1976年)。
1988年には「化学・電気技術研究所本館」(現・第一研究開発センター)を作りました。
この建物は単に研究するためだけのものではなく、研究開発の成果を発表するためのホールを設け、書籍を保管・閲覧するための図書室、また研究データを保管する耐火ロッカーを備えた特別な保管室がつくられました。
研究をサポートする場所を併設したのが、この研究本館です。

◆商品開発研究所
 1993年には「商品開発研究所」(現・第三研究開発センター)をたちあげました。専用棟の竣工は2001年です。
 この研究所をつくった目的は、企業の研究というのは、どうしても改良研究が主体になるものですが、それだけではダメだと考えたからです。
実際に商品を売っている営業担当から、こう改良してほしいという要望がきます。それは営業がまわっている得意先の要望で、われわれがつくっている商品の範囲内のことなのです。
 つまり現行商品の品質改良や、コストダウンが主体です。企業としては当然、そこに力を入れませんと競合他社に負けてしまいます。
ですが、いつまでも改良研究だけで果たして日本は生きていけるのだろうかと考えますと、それだけでは不十分だと思いました。
技術革新が早いテンポで進み、グローバル化の時代になると、商品の寿命はますます短くなっていきます。

◆本当の意味での新しい商品
 私は若い頃、いろいろな国を視察しています。訪ねた都市はおそらく70ケ所以上になります。
その時つくづく感じたことは、芸術、美術や音楽というものは国際化しており国境がないということです。
すると恐らく将来は技術も国際化してゆくのではないかと考えました。
 技術を支えている学問も国際化するでしょうし、また、それを具現化する企業も国際化してゆきます。何回も海外へゆくうちに、それを肌で感じたでわけです。
 商売も国境がなくなるわけですから、新しい技術、新しい商品が、日本に入ってくる頻度は増えます。そういう時代に、改良研究だけで生きていけるだろうか?海外からもっと安くて品質の優れた商品が入ってくれば、われわれは駆逐されてしまいます。
あるいは、新しい技術によって、従来の商品を全く使う必要がない時代がくるかもしれません。そうなると、それをつくっていたメーカーの存在は不要になります。
 本当の意味での新しい商品、その開発研究が必要と考えて、利昌工業の従来路線にこだわらない、その名も「商品開発研究所」をつくったわけです。

◆社内版オープン・イノベーションの場
 現在の技術というのは、ひとりやふたりの技術で完成するものではありません。大勢のひとが知恵を出しあってつくってゆく時代に変わっています。

 昔は発明した人の名前がはっきりしておりました。飛行機といえばライト兄弟。電話はベル。蓄音機はエジソン…。
しかし現代は、大勢のひとが係わっていますから、特定の人の名前は出てきません。
 そこで研究開発のスタッフ全員が一ケ所に集まる場所があるといいだろうと考えて「開発本部棟」をつくりました。私の構想の総仕上げとなる施設です。
みんなが一堂に会し、知恵を出し合う社内版のオープン・イノベーションができる施設として2017年に完成しました。

◆成し遂げるまで諦めない
 今考えますと、私は、やると決めたことを成し遂げるまで諦めなかった。それは私の力ではなく運が良かったからだと思います。そして今日まで生かされている私の寿命に感謝します。


(利倉晄一 著『三代でつないだ利昌工業100年史』より)


本稿は、利昌工業株式会社取締役名誉会長 利倉晄一が社内の会議等で、発言したことを社員が記録したもので、社内報に掲載したものを一部転載させて頂きました。