一隅の経営 133
RISHO NEWS230

利昌工業株式会社 取締役名誉会長

利 倉 晄 一

 

【180日間におよぶ労働争議】


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☆1954年(昭和29)年頃から、日本では、人権闘争や解雇闘争、賃上げ闘争など、労働争議が頻発しました、当時の労働争議は、自社の労働組合が相手というよりは、総評など上部団体が指導する非常に激しいものでした。
 私が実際に経験し、それにどう対処したのか、ありのまま述べておきたいと思います。

昔陸軍、今総評
 日本が戦争に負けて、占領軍として入ってきたGHQ(General Headquarters/連合国軍最高司令官総司令部)がおこなったことの一つは、日本の資本家を弱体化させることでした。先の戦争は、軍と資本家が結び付いて引き起こしたものであり、資本家を弱体化させれば、日本は再びあのような戦争を起こす国にはならないであろうという考えがあったのかもしれません。
 そこで、自国でも適用していないような、資本家や経営者にとっては不利な労働法を押しつけたわけです。
 この法は組合にとっては圧倒的に有利なもので、その中で、日本最大の労働組合といわれた日本労働組合総評議会(総評)と日本労働組合総同盟(総同盟)が生まれました。
 この二つが、非常に大きな労働団体でした。特に総評は300万人の組合員を抱えるという大組織で当時「昔陸軍、今総評」という言葉が流行ったくらいです。
 それほど総評というのは力があって、怖い存在というイメージが、経営者にはありました。

お墨付きを盾に
 さて、労働争議が始まると、不当とも思えるような要求をどんどん出してきても、それを断ればすぐストライキになり混乱状態に陥るというわけで、
それを恐れて本気で立ち向かうという経営者・会社はほぼゼロでしたでしょう。経営陣は、俗にいう雲隠れのような状態で逃げていました。
それほど当時の組合は力があり、しかも守られていたわけです。資本家を弱らせるためには、労働者により大きな力を与えようというわけですから、組合は天下のお墨付を得たようなものでした。

父の名誉を守るために
 利昌工業の労働争議は、1955年4月に発生しました。私は逃げないで、まさに命がけで戦いました。
それは当社の組合との戦いというよりは、総評相手の戦いでした。終わったのは、11月2日、実に180余日に及ぶ、泥沼の労働争議でした。
 私がこの労働争議を戦った理由は、名誉を守ることでした。誤報され、利昌工業は悪の権化のように新聞に書かれてしまいました。
今でいうブラック企業の最先端のような、人権を無視した会社だと報道されました。
 私がまず考えたのは父のことです。父の名誉を守るために決意しました。そうでなかったら戦えるものではありません。
 父のつくった会社が、むちゃくちゃな、悪徳会社であるような報道。これを私は許せないと思いました。会社を潰しても、この評判を取り除いてやろうと思ったことは事実です。

退職金、勤続20年で6千円
 利昌工業の争議について報道したのはX新聞とY新聞です。発端は退職金のことでした。戦後の超インフレで、貨幣価値は急速に変わります。インフレに対応して頻繁に金額を変えていては間にあわないので、利昌工業では退職金規定はそのままで、内規で運用していたわけです。
従って社内に不満はなかったと思います。
 しかし、これを一人の共産党系の組合員が取り上げて、こちらの処置も後手にまわったこともあって、Xが取り上げ、Yが追随しました。
X新聞の見出しは「退職金、勤続20年で6千円」というものでした。X新聞が書いたのには、こちらにも非があったことを認めざるを得ません。
私は知らなかったのですが、X新聞は、実は当社の工場に取材に来ていたのですが、それにきちっと対応しなったため、それではこちらで勝手に書きますよということになったようです。

男子、ひとたび膝を屈すれば、再び立たず
 私は真正面から向き合いました。26歳の時です。企業として、また人間として筋だけは通しておこうと思いました。
正義はわれわれにあるのだということを、世間に示さなければならない、そしてどうしても汚名を取り除かねばならないと、私は思いました。
 このことで会社を潰すかもしれないと覚悟しましたが、一方では勝つ、勝ってみせるという強い思いもありました。勝つためには当然、戦略というものが必要です。
 そのやり方について、私は先代から一任されました。先代、父は当時体を悪くしていたからです。父は、戦時中は会社の仕事と軍の仕事と両方していましたから、いろいろ悩みもあった
かと思います。そして、終戦後、経営の切り替えができなくて倒産した会社が沢山あるなかで、利昌工業を復興させるため、かなり無理もしたのでしょう。
現実問題として、先代に労組との折衝の場に出てもらうわけにはいかず、自分一人で片付けようと思いました。
 父には、私がひとりでやる、そのかわり、私に全ての権限を預けてもらいたい、会社は潰れるかもしれないが…と言いました。
先代は、お前の考えどおりにやればよろしいと言ってくれました。
 私が戦いに、決して屈しなかったのは、その時々に正しい判断をし、私を見守り、励ましてくれた創業者たる父の存在があったからです。
幼少の頃より教えこまれた「男子、ひとたび膝を屈すれば、再び立たず」という父の言葉が、私の大きな支えでした。

異常な雰囲気の中で
 争議中の団体交渉は、心身ともにきついものでした。当方は藤井博君と中角宇三郎君と私の3人です。藤井君は、軍隊から帰ってきて入社した人で、後に関西大学の夜間を卒業しました。
中角君は大阪府の労働部長の秘書をしていた人で、労働争議の経験はないが知識を持っていましたので、そういう縁で利昌工業に入ってもらいました。
この2人はよく頑張ってくれました。
 相手側は、当社の組合員が2〜3名、あと16〜17人は上部団体。さらに、そのテーブルの後ろには30〜40名の組合側の陣営が立って、威圧するように会議を見守っています。
建物の外は、200〜300名、時にはもっと多くの相手側の人間で取り囲むという異常な雰囲気の中での交渉でした。
 当時、当社の従業員は180名くらいで、そのうち組合(第一組合)を結成して、実際に争議に参加していたのは100名強であったと思います。
彼等の中には、上部団体の威圧的な指導に恐怖心をおぼえながら、仕方なくついていった人も多かったと思います。
 争議には参加しない者で、すぐに第二組合が結成されました。そして彼等が勇気を持って戦ってくれたことに対し、
今も感謝の念を持っておりますとともに、やはり彼等がいなかったら私は戦えなかったと思います。

芝居がかったプロの手口
 交渉のテーブルについた相手は、大半がプロの上部団体の専従者や、労働運動のベテランばかりです。ある者は私達に対し脅迫的な言辞を弄します。
例えば、総評300万が会社を倒し、ペンペン草だらけの工場にしてやる…。あるいは、月夜の晩ばかりではないぞ…というような言い方で迫ってきました。
 かと思うと、別の者が、暴力的言動をする者を制するという芝居がかったことをします。
そして今度はマルクス理論等を述べ、当方を言論で制圧しようと迫ってきます。
下手な田舎芝居をする相手に対して、私は屈することなく立ち向かいました。
暴力的な言葉を弄する者達には、こちらも激しく対抗し、言論で責めてくる者達には、理論で対応し、一歩も退きませんでした。
藤井・中角両君もよくそれに耐えて戦ってくれました。そのことを誇りに思っています。 帰りが大変です。
相手は徹夜交渉に持ち込もうと強圧的な態度で、なかなか私達を帰そうとはしません。それに呼応するように外部の者達は大声で騒ぎ立てます。
その中を、私達は気迫で進みます。あわやという状態になりますが、そこは彼等の中に止め役がおりまして、私達に危害を加えないようにしています。
 しかし当時、大方の経営者は、その芝居じみたやり方に恐怖を感じ、そのまま徹夜交渉に持ち込まれ、体力的にも限界に達して結局、負けてしまったものと思います。
また交渉から逃げ隠れする経営者もいました。はじめから対決する勇気がないのですから、これも結局、負けてしまったのでしょう。

父の夏布団
 私の場合、家にたどり着く頃には強度の緊張から、心身ともに疲労困ぱいの有様でした。それでも帰宅すると、そのまま真っ先に先代に報告に行きました。
 夏近くの頃でした。父は床に伏して寝ていました。報告に来た私を見ると「晄一、疲れたであろう。この布団の中に入り少し休みなさい」と言って、薄い夏布団を上げました。
体をよじり、私を布団の中に招き入れようとしました。私も素直に父の横に寝ました。胸が熱くなり、この人のためなら命も惜しくないと思ったものです。
その時の薄い夏布団の感触を今でもはっきり覚えています。

買掛金を支払う
 労働争議は戦争と同じです。戦争ですから、はじめから負けると思って始める人はいません。
勝つことを考えてやるわけです。しかし、この戦争に勝ったとしても、会社はガタガタになっているはずだと私は思いました。
争議に勝ったとしても、そのまま倒産すれば、これは勝ったようで負けたことになります。それを回避するにはどうすればよいか。
 私がまず考えたことは、原材料の仕入れ先に対して、買掛金を全部払ってしまおうということです。
メーカーの生産活動は、仕入れ先から原材料を購入して、それを加工して製品にして、得意先に売ることですから、得意先が買おうと言っても原材料が手に入らなければどうにもなりません。
買掛金を払っておけば仕入れ先からも信用され、原材料の確保も心配ないだろうと考えました。
 銀行をまわり、売掛金や会社の全財産、場合によっては私有財産も担保として提供するから、お金を出してほしいとお願いしました。
全部ではありませんでしたが、大方の買掛金は払いました。すると仕入れ先の会社からも「利昌さん頑張りなさいよ」という激励の言葉をいただきました。

関西化学労連、3000人を導入
 利昌工業の労働組合は、関西化学産業労働組合連合会(関西化学労連)という総評系の上部団体に加盟していました。彼等も動員をかけるには相当の経費がかかります。
従ってどちらが先に資金的に音を上げるかという問題になります。私は倒産覚悟で、ギリギリまでの計算をしていました。
関西化学労連の資金は組合員から集めたお金ですから、激しい動員でお金を使いすぎると内部から批判が出て、彼等も困るだろうと見たわけです。
 新聞に報道されて利昌工業も話題になっていましたが、争議の騒ぎで関西化学労連も話題になっており、何が何でも勝たねばという思いと、資金的には早く片付けたいという思いの二つがありました。
 彼等の動員の規模は、われわれのような小さな会社に対して、多い時は3000名くらい。通常でも500〜1000名くらいの驚くべき数でした。
そして、デモをしたり、われわれの自宅や会社を取り巻いたりしました。当時、大淀にあった本社も、一時、そうしたデモ隊に占拠されたことがありました。
それを第二組合が中心になって、文字どおり力づくで追い出して再占拠するという、まさに戦争でした。その後は、取り戻した本社に、全員が寝泊まりして守りました。
労働争議が終わる寸前までですから3ケ月くらいは続きました。その時の第二組合の人々は本当に体を張って、よくやってくれたと思います。

良いエピソード
 その頃こんなことがありました。国鉄労働組合(国鉄労組)というのがありまして、その大阪の国鉄労組も動員されて来ていました。
ある時、その幹部が、私に面談を求めて会社に来ました。そして、どういう理由で、ここまで激しい争議になったのかと問いました。
私がいろいろ説明すると、「そうかわかった、それならわれわれは応援する必要はない、全部引き上げさせます」と、動員に参加していた約400人全員を引き揚げてくれました。
労働組合の中にも、こちらの話に耳を傾けてくれる立派なリーダーがおられるのに感心しました。

総評事務局長が激励に
 争議になかなかラチがあかないので、総評本部自体が苛立ってきて、当時の総評事務局長の高野実(たかの みのる)本人が激励にやってきました。
高野といえば、300万人を擁する総評のトップに立っている男です。
 東京から高野が来たわけですから、関西化学労連は必死で、北海道や九州にまで応援を頼みました。遠方で来られない労組は、せめて赤旗だけでもと、送ってきました。
自分達も応援しているという姿勢を見せたかったのでしょう。
 彼等はその旗を尼崎工場のまわりに立てました。その数は、百数十本にもなりました。北は北海道から、南は九州までの労組の旗がたなびいているわけです。
これで相手を恐れさせるという戦法だったと思います。
 大方の経営者は、それを見れば恐れると思います。日本国中を相手にしているような気持ちにさせられるわけですから、普通の神経では耐えがたいと思います。
私は、何が何でもやり抜いてやるという信念を持っていましたから、少なくとも動揺はしませんでした。
ただの旗ではないか、旗が何本あろうとそれが自分に向かってくるわけではない…そんな強がりを言いながら我慢しておりました。

治安維持で警察に出動要請
 争議参加者は外部団体を入れて3000名まで膨れあがっていましたから、治安が心配でした。
それだけの数の人間がやってきて騒いでいるわけですから、工場のある塚口など町の人々は恐れをなしているわけです。
そういうことが私の耳に入ってきますから、私は兵庫県の県警本部に対して、警察官を出してもらいたいとお願いしました。
 最初は労働問題に警察は関与できないから出せないという返事でした。そこで私は、治安維持で出してほしい、町の人も恐れていますと訴えました。検討の結果、出してくれました。
一番多い時は警察官が1500人出ました。通常でも300〜400人の警察官が出ていました。労働争議の期間が長いだけに、延べにすれば、相当数の警察官が出たことになります。

化学労連の行き詰まり
 最終的には、関西化学労連が資金的に詰まってきたと思います。彼等の資金は組合員から徴収した組合費が原資ですが、そこから延べにすると何百、何千人という動員をかけた人に払う日当が賄えるわけがありません。
そのお金は争議に勝って、相手から「解決金」をとることで穴埋めをするという仕組みなのです。
 それが、もし利昌工業から解決金がとれなかったら、どうなる?ということになります。
総評本部からも資金は出ていると思います。解決金をとって早く返せ、と催促されているはずです。そこで彼等は、私を責めました。
脅迫的なこともありましたが、私は毅然とした態度で対応しましたから、彼等も次第に諦めていったと思います。
 警察のほうも、それだけの警察官を出すと、特別手当の予算も底をついてきます。また労働争議の治安もさることながら、窃盗やその他犯罪の取り締まりも警察の仕事であり、人手が他にとられることで、おろそかになりかねないという問題も出てきたのです。
早く何とか解決してほしいという警察からのプレッシャーもありました。

労働委員会の裁定
 関西化学労連に加盟している各社からも、利昌工業との争議のために多くの資金が使われていることに対する批判が起こってきたようでした。労働委員会からも勧告が出ました。
これは労働委員会の裁定としては、異例と思われる程、利昌工業にとって「やや有利」と思われるものでしたが、私はこれを蹴りました。
その程度では、頑張ってくれた第二組合の従業員に申し訳が立たないと考えたからです。
 そうこうしているうちに、総評・関西化学労連のほうも折れてきて、こちらにとって「非常に有利」な条件で解決できました。

法廷闘争が勝機
 労働争議も一種の戦いですから、どこかに勝機というものがあります。例えば、太平洋戦争でいえば、ミッドウェーで航空母艦を全部撃沈されて日本が負けた。
これがアメリカにとっての、この戦争での勝機でした。
 利昌工業の労働争議も、頑張ったから勝てたという、それだけのことではありません。法律で問題を片付けたことが、勝機になりました。日本は法治国家ですから。
 空襲で焼けた大阪の本社工場は休業状態ですから、生産の主力は尼崎工場です。ここを不法占拠されていました。
会社としては不法占拠している人に尼崎工場から出ていってもらう必要があるわけで、ロックアウトをしました。ロックアウト宣言をして、占拠している人に出てもらうわけです。
当社の組合員は、ほぼ、いません。大方は外部の人でした。しかし、これらの人は出せましたが、工場にある品物が出せるかとなると、これが難しいのです。
どういう妨害をするかといいますと、女性が何人もトラックの前で寝るのです。
 利昌工業のユーザー、お得意様としては、当社の絶縁材料がないと電気機器の生産に支障をきたすわけで、代替品が間にあわない場合もありますから、早く品物を出してほしいと、連日、矢のような催促を受けました。
 そこで、われわれは大阪の地裁に、出荷妨害をしてはならないという仮処分を申請しました。
しかし当時の社会的風潮では、裁判所も、労働組合側に立つわけです。従って仮処分を申請しましたが、簡単にはこちらに有利な判決は下りないだろうと危惧しておりました。
 ところがこちらの正当性を訴える法廷闘争の結果、出荷してもよろしい、それを妨害してはならないという判決が出ました。
今考えますと、当時の尼崎は争議のために、あまりにもひどい状態に陥っていましたから、裁判所も、何とかこの問題を解決しようと思ったのかもしれません。
われわれが、恐らく無理だろうと思っていた仮処分が出たわけです。
 これによって、警察は出荷を妨害しようとする人を排除することができ、われわれは品物を出荷することができました。
 この判決が、利昌工業にとって、この争議での勝機になりました。一番大きかった、争議の転換点だったと思います。

労使の運命は共同である
 しかし考えますと、私は労働争議に勝者と敗者があるのは、おかしいと思います。会社側が勝ったから勝者、労働者側が負けたから敗者という考え方には疑問を抱きます。
何故なら、会社自体は荒廃しているわけです。そして会社と、そこに働いている従業員とは敵対関係ではありません。運命共同体のはずです。労働者側が勝って、その結果会社が倒産すれば、労働者側も職場を失うわけですから、敗者といわざるを得ません。
 私はこの争議の経験から、労使は運命共同体であるという考え方が、心の中にできました。
私がつくった企業理念の冒頭に「労使の運命は共同である…」とうたっているのは、その時の経験なのです。
 法的な判決で争議は解決したわけですが、もうひとつ私にとって心強かったのは、学卒の従業員を中心にすぐに第二組合が結成され、会社に正義があるという考え方で、会社とともに戦ってくれたことです。


利倉晄一による「企業理念」1963年

 私の知人で、弁護士の深川純一氏が、争議における私の戦い方を執筆して、それがある機関誌に掲載されました。その一部を転載させていただきます。
 「友人 利倉晄一君は、未だ弱冠27歳の若さでありました。当時は、未だ戦後の復興の途中で、会社経営も苦しく、労働運動華やかなりし時代でありました。
そのような時代に、彼は、激しい労働争議を戦い抜き、遂に、解決金なしで争議を解決した殆ど唯一の人であろうかと思います。
その一端を紹介しますと、組合側は、上部団体始め他社の組合員も総動員して、約3000人が彼の会社に押し掛けましたが、
彼は、180日間戦い続けて一歩も譲らず、遂に、総評が折れて、彼は自分の主張を押し切ったのであります。結局、解決金を一銭も支払わないで、労働争議を解決したといいます。恐らく戦後の労働運動史上殆ど例を見ないことであろうかと思うのであります。」

(利倉晄一 著『三代でつないだ利昌工業100年史』より)


本稿は、利昌工業株式会社取締役名誉会長 利倉晄一が社内の会議等で、発言したことを社員が記録したもので、社内報に掲載したものを一部転載させて頂きました。