私の年代(1929年生まれ)の旧制中学校時代は軍国教育ですから、国家という概念しかありませんでした。国家のために死ぬとか…頭にあったのは国家だけでした。昭和20年の敗戦は、複雑な気持ちでした。戦争に負けて、国家がなくなると、どうなるのだろうと、思いました。
兵庫県の伊丹中学校から、私は関西学院大学に入ったのですが、関西学院のスクール・モットーはMastery for Serviceでした。「奉仕のための練達」と訳されましたが、最初は意味がよくわかりませんでした。
そのうちに「社会」というものがあるということがわかってきました。つまり「国破れても、社会がある」ということです。
それまでの私の価値観は、国に奉仕するというものしかありませんでしたが、関西学院で私は、国がなくなっても、社会があるのだから、絶望することなく、社会に対して貢献するという考え方が大事なのではないかということが、漠然とわかりました。私は、関西学院で社会に貢献することが大切なのだということを学びました。
社会に迷惑をかけるのは、悪なる存在ですから、私が日頃、企業は善なる存在でなければならないと言っているのは、この考え方に基づくものです。
善か悪かの判断基準は社会に対する貢献を、無視するか、無視しないか、できまります。
私は昭和26(1951)年に利昌工業に入社したのですが、3年目の昭和29年に、電気絶縁材料ではなく、絶縁材料を使った「工具」の開発に挑戦することになります。
あの当時は一般家庭でも、産業界でも、しばしば起こる突然の停電に悩まされました。
電気は発電所から変電所…といった経路で送られるわけですが、何万ボルトという高圧で送電されますから危険です。そこで電線路の修理作業は「電気を止めて直す」というのが常識でした。
しかし、その後の急速な復興・発展にともない産業活動が活発になると、この停電によってもたらされる経済的損失の大きさが議論されるようになりました。
調べてみますと、アメリカには、何万ボルトという電気を流したまま作業ができる、いわゆる「活線作業」の技術があったのです。この技術を日本に導入することが急務とされました。
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