一隅の経営 110
RISHO NEWS207

利昌工業株式会社 代表取締役会長兼CEO

利 倉 晄 一

 

国破れても、社会がある

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 私の年代(1929年生まれ)の旧制中学校時代は軍国教育ですから、国家という概念しかありませんでした。国家のために死ぬとか…頭にあったのは国家だけでした。昭和20年の敗戦は、複雑な気持ちでした。戦争に負けて、国家がなくなると、どうなるのだろうと、思いました。
 兵庫県の伊丹中学校から、私は関西学院大学に入ったのですが、関西学院のスクール・モットーはMastery for Serviceでした。「奉仕のための練達」と訳されましたが、最初は意味がよくわかりませんでした。
 そのうちに「社会」というものがあるということがわかってきました。つまり「国破れても、社会がある」ということです。
 それまでの私の価値観は、国に奉仕するというものしかありませんでしたが、関西学院で私は、国がなくなっても、社会があるのだから、絶望することなく、社会に対して貢献するという考え方が大事なのではないかということが、漠然とわかりました。私は、関西学院で社会に貢献することが大切なのだということを学びました。
 社会に迷惑をかけるのは、悪なる存在ですから、私が日頃、企業は善なる存在でなければならないと言っているのは、この考え方に基づくものです。
 善か悪かの判断基準は社会に対する貢献を、無視するか、無視しないか、できまります。
 私は昭和26(1951)年に利昌工業に入社したのですが、3年目の昭和29年に、電気絶縁材料ではなく、絶縁材料を使った「工具」の開発に挑戦することになります。
 あの当時は一般家庭でも、産業界でも、しばしば起こる突然の停電に悩まされました。
 電気は発電所から変電所…といった経路で送られるわけですが、何万ボルトという高圧で送電されますから危険です。そこで電線路の修理作業は「電気を止めて直す」というのが常識でした。
 しかし、その後の急速な復興・発展にともない産業活動が活発になると、この停電によってもたらされる経済的損失の大きさが議論されるようになりました。
 調べてみますと、アメリカには、何万ボルトという電気を流したまま作業ができる、いわゆる「活線作業」の技術があったのです。この技術を日本に導入することが急務とされました。

 アメリカの活線作業用工具を輸入してみると先端の金具はともかく、大切な絶縁棒が、日本のように湿度の高い国では絶縁信頼性に劣るという結論になり、絶縁材料メーカーの利昌工業にお声がかかったのです。
 アメリカの活線工具の絶縁棒は、比較的軽い天然の木材の表面に絶縁塗料を塗っただけのものでした。
 戦時中で金属が不足していた頃、利昌工業では軍の命令により、強化木で飛行機のプロペラをつくった経験がありました。それは薄い木材単板にフェノール樹脂を含浸させ、それらを何枚も重ねあわせて、高温・高圧でプレスしたものでした。
 戦後はこれに電気絶縁性を付与して絶縁強化木「ウッドライト」という商標で、変圧器などの絶縁材料に使われていました。ウッドライトの形状は「板」が多かったのですが、これを活線作業用工具の柄とするため「棒状」にプレスしたのです。それだけではなく、軽くするために内部を空洞にした「パイプ」状に成形することにも成功しました。
 ウッドライトパイプ(チューブ)は表面だけでなく、木材の内部にまで樹脂が含浸されていますから、湿度が高い日本でも絶縁信頼性が高く、表面に傷がついたくらいでは絶縁性が損なわれることはありません。
 このような点が高く評価され、日本で使用する活線作業用工具の絶縁棒は、利昌工業の「ウッドライト」にしよう、ということで日本の電力会社は認定しました。
 ここに至るまでには、東京電力、関西電力、中部電力、東北電力など、日本の九電力会社からなる活線作業普及のための委員会が組織されました。各電力会社から送電や配電技術の責任者が参加されましたが、当時26才の私も委員に推されて参加しました。
 毎月一回、東京電力で行われる会合に出席するうちに、私は、単に「材料」である絶縁棒だけを供給するのではなく、先端の金具の設計を含めた活線作業用工具の「完成品」を製作する決心をしました。
 昭和31(1956)年、利昌工業は国産活線作業工具の第1号として、14万ボルト送電線用工具を3組、2〜7万ボルト送電線用工具を6組、関西電力様に納入しました。これを皮切りに活線作業は九電力会社へと普及していきました。

 こうして絶縁材料メーカーである利昌工業が「材料」だけでなく「工具」という完成品を開発し、電力会社に直接納入することができました。
 その後も現場の声を聞きながら金具の改良を重ねることで、日本の活線作業の普及に、延いては戦後の復興期にあった日本の産業界に対して、停電を少なくすることで、いささかの社会貢献ができたのではないかと考えています。
 利昌工業では今でも、この活線作業用工具を作っているか?というと、作っておりません。日本での需要がなくなったからです。戦後の復興当初は、発電所から消費地に電力をおくる経路は、一系統がやっとでしたが、経済が豊かになると、二系統になりました。作業をする時はひとつの系統を停電にして、活線ではなく死線で作業をします。死線の方がリスクは少ないし、作業もやりやすいことはいうまでもありません。そして作業の間も、もうひとつの系統で電気を送るわけです。
 アメリカはあれだけ広い国土ですから、隅々まで二系統というわけにはいかないので、いまでも一部は活線作業が残っていると推察しています。
 日本での活線作業はなくなりましたが、たとえ一時期にせよ、社会に貢献できたことは良かったと思っています。
 企業は善なる存在でなければならないと申しましたが、もうひとつ大切なことは、利益を上げて、国家に税金を納めるということです。日本には税金を納めていない企業が半数近くあるといわれますが、税金を納めていない会社は、国家に貢献しているとはいえません。
 国家がなくなっても、社会があると冒頭では言いましたが、国家を忘れているわけではありません。戦時中のような国家は御免こうむりますが、国家も社会も大事なことは、言うまでもありません。


本稿は、利昌工業株式会社取締役会長兼CEO 利倉晄一が社内の会議等で、発言したことを社員が記録したもので、社内報に掲載したものを一部転載させて頂きました。