一隅の経営 138
RISHO NEWS235

利昌工業株式会社 取締役名誉会長

利 倉 晄 一

 

    

【50年を費やした海外事業】

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 戦後は貿易自由化の時代になり、利昌工業も商品の輸出を真剣に考えはじめました。意欲的に活動を始めたのは1962(昭和37)年、私が台湾、香港、タイに出張した時です。
 この年は尼崎工場内に最初の研究所をつくった年でもあります。当社の海外事業を担う部署は、貿易係から貿易課になり、海外部になり、そして今日の海外事業部へと発展していきました。海外事業部にしたのが2013年でしたから、私の最初の東南アジア出張から50年以上の年月がかかっていることになります。
 台湾については、現地の新永和股份有限公司(新永和)という商社より、以前から台湾電力向けに当社の活線作業用工具やアースフック棒の引き合いが少しありましたが、私の訪問で正式に代理店契約を結び、その後、工具だけでなく、当社の絶縁材料を広く販売してもらいました。



 初めての台湾訪問で、私は実は緊張しました。戦後、日本国内では在日の朝鮮の方々、台湾の方々が解放されて、一部ではありますが暴動のようなことも私は目にしておりましたので、台湾での対日感情はどうなのか不安でした。そして何よりも、何語で話せばよいか迷いました。
 新永和に伺い、やはり無難な英語かと思って、英語で話しはじめますと、新永和の社長は「いやー私は以前、三井物産におったんですよ…」と流暢な日本語を話され、ほっとしたものです。
 そして、何日かの台湾滞在の間に親日の方が大勢いらっしゃることを知り、本当に感激しました。新永和には台湾電力の副社長を紹介してもらうなど、当社商品の台湾マーケットヘの売り込みに一定の目途をつけることができました。
 台湾の後、香港に渡ったのですが、予想に反して香港での対日感情は良くありませんでした。香港では安平貿易行(安平)という商社と代理店契約を結びましたが、その後、安平からは、当社の「リショーライト」への注文がトン単位で入るのです。リショーライトは本来、電気絶縁材料(フェノール樹脂積層板)です。香港には大きな重電機メーカーがありませんから、不思議に思って聞いてみますと、櫛に使うというのです。当地の人は整髪する時に髪鏝(かみごて)を使うそうで、耐熱性のあるフェノール樹脂の櫛がよいのだそうです。 熱硬化性であるフェノール樹脂の積層板は、再び熱をかけても軟らかくなりませんから、櫛に加工する際の全工程を機械で行います。まず7~8mm程度の厚さの積層板を、厚さ方向に斜めに切断します。すると、櫛に適した断面がクサビ形の板が2枚とれます。



 次に、その断面を薄い丸鋸を何枚も等間隔に配置したものに当てて、歯と目をつくり完成です。今は耐熱性のある熱可塑性樹脂があり、射出成形などで一気に加工できますから、積層板で櫛をつくることはなくなりました。
 このようにして当社の貿易、海外事業ははじまりました。




【 高耐熱ガラスエポキシテープの開発 】

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◆350℃で10分間
その後、海外事業の売上を大きく牽引したのは、高耐熱エポキシ樹脂を使ったICカード用のガラスエポキシテープです。
 この高耐熱エポキシ樹脂は、私が最初につくった小さな研究所で1975年に開発されました。それまでのエポキシ樹脂の常識をはるかに超える350℃で10分間の耐熱性があるものです。これだけの耐熱性があると、プリント配線板の上に直接、半導体の裸のチップを金のワイヤーで接着(ボンディング)することができます。
 高耐熱エポキシ樹脂開発のきっかけは、アメリカの積層板メーカーH社が、300℃で10分間の耐熱性を持つエポキシ樹脂基板を開発したという情報でした。そこで当時の研究スタッフの一人、宇田頴了君が、触媒に酸無水物を使ってH社をしのぐ350℃を開発しました。酸無水物は一般的なアミン系の触媒と違い、ライフが短く扱いにくい触媒ですが、当社はこれを量産ベースでも使いこなすことに成功します。



◆ヒット商品に
 この高耐熱エポキシ樹脂の基板は、高価なセラミックス基板に取ってかわることができたので、クォーツ式の腕時計に全面的に採用され、普及に貢献しました。



 色を不透明な黒色にしたことから「リショーブラック」あるいは「ブラックG-10」(G-10はANSI規格のグレード)と呼ばれ、時計以外にもデジタルカメラ、電卓に採用されたほか、インテル社が半導体のテストに使うバーンインボードの材料に指定するなど、利昌工業のヒット商品になりました。

◆ブラックG-10のテープ化
 ブラックG-10は、定尺寸法が1m角のプリント配線板材料ですが、これを薄くテープ状にするための研究開発が進められ、1978年、世界で初めて成功します。
 この頃アメリカのデュポン社が開発した耐熱性に優れたポリイミド樹脂テープを使って、シャープが半導体をオートメーション方式で電卓に組み込むことをスタートしています。
 これを見た当社のスタッフが、ブラックG-10を何百メートルもの薄いテープ状にすることに挑戦したわけです。このテープ開発に尽力したスタッフの一人が石丸修君です。
 このテープは、ガラス布で補強していますので、ポリイミドフィルムより寸法安定性に優れ、吸水率もポリイミドフィルムより低いという特徴がありました。シャープは、自社のオートメーション方式LSI連続実装用のテープ材料を、ポリイミドフィルムから当社のガラスエポキシテープに切り替えました。



◆仏のICテレフォンカードから世界へ
 1984年には、フランスから70mm幅、300mのサンプルオーダーが入りました。これが、当社の海外事業拡大の大きな一歩になります。
 フランスからの引き合いというのは、フランスの電話会社PTT(現・オランジュ)が公衆電話のプリペイドカードのIC化を計画し、このICを搭載する基板として当社の高耐熱ガラスエポキシテープに目をつけた…ということでした。



 当時日本のテレフォンカードは磁気で情報を記録するタイプで、50度数、100度数などのカードを公衆電話に差し込んで使っていました。
 しかし、磁気カードは偽造されやすい。日本でも偽造カードが出回り、高度数のものは発行禁止になった経緯があります。
 ところがヨーロッパでは、はじめから偽造されにくいICカードを計画したのです。当社へのサンプル要求はそのためのものでありました。PTTは当社のガラスエポキシテープにICチップを連続実装することに決定し、フィールドテストとして100万枚分程度からスタートしましたが、1990年には、その発行枚数は6000万枚に達しました。公衆電話用のICカードは世界的に普及し、2000年頃になると、世界での発行枚数は10億枚に達します。

◆SIMカードへと展開
 その後、携帯電話が普及すると、公衆電話用のICカードの発行枚数は下降線をたどりますが、今度は携帯電話のSIMカード(利用者情報を書き込むICカード)が普及し、このカードにも当社のガラスエポキシテープが採用されたことから、引き続き需要は伸びていきます。
 今日では銀行カードなど、高いセキュリティーが要求されるカードにも採用されています。半導体連続実装用テープとして、利昌工業のガラスエポキシテープは70パーセントを超える市場占有率となり、当社のグローバル・ニッチトップ商品になります。



◆供給責任
 利昌工業のガラスエポキシテープは、世界的になくてはならない材料になりましたが、当社としては半面、大きな責任と問題も抱えることになります。
 一つは、供給責任です。事実上、世界の需要を利昌工業一社で賄っているわけですから、万一のことを考え、テープの生産工場を尼崎工場だけでなく、滋賀工場、湖南工場の3工場に分散して生産可能な状態にしました。また的確に需要の見通しを立て、必要な設備投資を実施していきました。

◆ノウハウの秘匿
 いま一つは、生産方法の秘密保持です。本来は1m角で、一定の厚みがあるガラス布基材エポキシ樹脂積層板を、薄くて継ぎ目がないテープ状にする方法は、大量に生産ができるという点で、当社が世界で初めて成功させたものといえます。この生産のノウハウは最高機密として守る必要があります。
 当社のテープをICカードに組み込むまでには、回路を形成したりメッキをしたりする加工メーカー(当社の直接の販売先)が間に入りますが、このフランスの加工メーカーからは、フランスに工場をつくることを強く要望されました。また、工程検査と称して工場を見せるように、これも強く、たびたび要求されましたが、全てお断りしてきました。当時、貿易課の課長だった勝見真君は、工場を見せるという返事を持ってきていないなら、このまま帰れ…とフランス本社で門前払いにあったこともあります。
 ちなみに勝見君は英語もうまく、テープを中心に売上を大幅に伸ばしてくれた人物です。加工メーカー相手の折衝では、ずいぶん苦労もしたと思います。彼の功績で貿易課は海外部に昇格し、2002年に彼が海外部長に就任します。しかし、海外事業部になる前に、彼は若くして急逝します。彼のことを思うと今でもかわいそうで、痛恨の極みであります。
 話を戻します。私がそのフランスの加工メーカーを訪問した時、他社の類似のテープを見せられ「これはドイツ製だが、使えるレベルに来ている」などと牽制されました。そして「ミスター・トクラ、当社の工場をご案内しましょう」と誘われたのです。私は「私は技術者ではありません。経営者ですから、御社のビジネスには関心がありますが、工場には興味がありません」と断りました。私が工場を見てしまったら、今度はお前のところを見せろと言われると困ると思ってのとっさの判断でした。
 そんな駆け引きをしながらも、その加工メーカーとは今日まで30年の取引が続いています。われわれにとっては売上の金額から見ても最重要の得意先ですし、先方も当社の材料と高い加工技術で、この分野では世界一のシェアを持つ会社に成長しています。
 勝見君の後を継いでくれているのは、現・取締役海外事業部部長の安食厚志君です。彼は、化学技術研究所出身の化学の技術者ですが、台湾駐在の経験もあり、優れたマネージャーとして海外事業を引っ張っています。
 現在の海外事業部は、韓国、台湾、シンガポール、中国、ドイツに駐在員事務所を持ち、ガラスエポキシテープ以外の商品の輸出も積極的に展開しております。


【中国への工場進出】

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 1998年無錫電気
 2004年無錫化成を設立


◆チャンスを伺う
 1998(平成10)年に、利昌工業として初めて海外に工場をつくる計画を立てそれを実行しました。
 海外に進出して、海外で生産するというチャンスは、実は以前にもありました。それは、われわれの主力商品であったプリント配線板用の銅張り積層板の生産が、家電メーカーの製造工場の海外移転で国内の製造業が空洞化し、ほぼ全滅した時です。
 家電のプリント配線板に使われる紙基材フェノール樹脂銅張り積層板は、1990年あたりをピークに、2000年には国内生産が全滅します。この過程で、銅張り積層板をつくる同業他社はいっせいに海外に工場を移しました。一部は日本にも逆輸入しましたが、中国を中心に海外に移転した需要家に、アウト・アウトで供給するという体制をとったのです。



◆戦術的失敗と戦略的失敗
 当社も、その時が海外に工場をつくるチャンスでした。しかし私は、われわれが海外で工場をつくっても、それは結局、国内での競争がそのまま海外に移るだけで、困難さは同じだと考えたのです。われわれの同業者は、松下電工(現・パナソニック)にしても、日立化成、住友ベークライト、三菱ガス化学にしてもどこも大企業で、売上額全体に占める銅張り積層板の比率は小さいのです。
 ところが、利昌工業の場合は企業規模が小さいだけに、銅張りの生産に占める割合は70パーセントに達します。従って、この主力商品がなくなった時の打撃は、他社とは比べものにならないくらい大きなものでした。
 しかも、旺盛であったかつての国内需要を賄うために、当社は、借金をしてそれなりの生産設備を調えていたわけですから。このような状況の中で、海外にまた同じような設備をつくって、もしそれが失敗すれば、われわれの場合は戦略的な失敗、俗にいう深手を負うわけです。
 一方、大手の同業者は需要家である電機メーカーグループの一員でもありますし、全売上に占める本商品の売上は小さいですから、海外で失敗しても手傷を負うという程度の、いわゆる戦術的失敗で済みます。また現地、中国の積層板メーカーも台頭してくることを考えると、残念ながらその時点では、海外進出はしないという判断をしました。
 しかし、いつの日か、海外にも生産基地を持ちたいと思っていたことも事実です。
 というのは、将来、世の中はグローバル化していきます。ですから、海外での生産も経験しておきたいと考えていました。しかしこの時は、あまりにもリスクが大きい、経験になるどころか命取りになりかねないと諦め、次のチャンスをねらっておりました。

◆チャンス到来/徐礼信氏からの親書
 そのような中、当社が国内で圧倒的に高いシェアを持っていたエポキシ樹脂による「レジンがいし」の市場に、台湾から安いレジンがいしが入ってきました。
 これに対抗するために、社内で議論しました。中には、その台湾のメーカーを下請けに使ったらどうかという意見も出ましたが、それは小手先のやり方であって、問題の解決にはならないと私は思いました。台湾の安い人件費より、さらに人件費の安い中国で当社が工場をつくれば、台湾に勝る競争力を持てるのではないかと考えました。
 そんな析に、シンガポールの元大阪総領事で、私も懇意にさせていただいていた徐礼信(スイ・レイ・シン)氏から親書が届きました。彼は、中国江蘇省無錫市の無錫シンガポール工業団地開発会社の副総裁に就任していました(総裁はシンガポールの前首相リー・クアンユー氏の子女)。
 親書の内容は、シンガポール政府と中国・無錫市が共同で造成した工業団地ができたので、利昌工業も進出しませんか、というお誘いでした。
 徐礼信さんは、日本の東京工業大学(建築学科)を卒業され、奥様は日本の方です。たいへんな日本びいきであると同時に、シンガポールに対する高い愛国心を持っておられる方です。情熱家であり、積極的で信頼できる人柄であることもわかっておりました。大阪総領事の後、シンガポール政府の要職につかれていることも知っておりました。

◆1998年 利昌工業(無錫)電気有限公司の設立
 これは渡りに船だと思い、前向きに検討を始めました。
 大きな課題となったのは、中国で会社をつくるには中国側の資本との合弁が必要と聞いていたためどう対処するかでした。合弁では、こちらの意思が通りにくい。特に、われわれの規模の会社では難しいであろうと思いました。これに対して徐礼信さんは、シンガポール政府がつくる団地であるから「独資」でもできると、われわれの背中を押してくれました。
 1997年、利倉幹央副社長(現社長)をはじめとする調査団をつくって、法律、税金、作業人員の見通し、賃金水準、交通事情、それにセキュリティー、電力・水などのインフラを綿密に調べまわりました。その結果、経験豊富なシンガポール政府が造成した工業団地であるだけに、特にセキュリティーとインフラの点でリスクが少ないと判断、進出を決定し、1998年「利昌工業(無錫)電気有限公司」を設立しました。そして、ここで「レジンがいし」の生産を開始したわけです。



◆独資でよかった
 当初はシンガポール政府が建てた工場を借りてスタートしたのですが、1年もしないうちにやっていけるという自信ができましたので、土地・建物の権利を買い取りました。中国側の資本を入れて合弁でやっているまわりの日本企業の苦労話を聞くにつけ、独資でやって良かったなと思いました。
 その後、無錫電気は順調に業績を伸ばしました。つくったレジンがいしは中国で売るのではなく、全量を日本に逆輸入して、日本で売る方法をとりました。かねがね私が考えていた、台湾より安いコストのものを海外の自社工場から輸入して、日本で売るという方法です。そして、利昌工業のレジンがいしは、70パーセントに達する国内トップシェアを維持することに成功しました。無錫電気はその後、レジンがいしだけではなく小型の計器用変成器も生産し、現在では自己資本比率が95パーセントという優良企業に成長しています。これも、徐礼信さんが背中を押してくださったおかげで、徐さんには心より感謝しております。



◆2004年 利昌工業(無錫)化成有限公司設立



 無錫電気成功の6年後になりますが、2社目、積層板をつくる「利昌工業(無錫)化成有限公司」も、シンガポール団地にある無錫電気のすぐ隣につくりました。2004年のことです。無錫電気と無錫化成は、別の会社ですが、総経理など幹部は共通にして、ひとりの人間で兼務してもよいと無錫市は認めてくれました。総経理は日本から派遣していますから、これは助かりました。そういう意味で、無錫の副市長にもたいへんお世話になったわけで、感謝しております。
 無錫化成は、はじめ中国に進出している日系企業を対象に積層板を販売していましたが、徐々に現地の電機メーカー、部品メーカーにも販売していきました。主力の商品は、アルミ電解コンデンサの絶縁と封口の役目が果たせるゴム張り積層板です。積層板の上にゴムシートを同時プレスしたもので、利昌工業のグローバル・ニッチトップ商品です。

◆塗布機とプレス機
 積層板の製造設備は、樹脂をつくる反応装置、プリプレグをつくる塗布機、そしてプリプレグを積層して加熱加圧するためのプレス機が主要な設備になりますが、特に大きな投資金額になるのは塗布機とプレス機です。これらを、実績があり、技術的にもお互いに理解しあっている日本のメーカーにつくらせるなら簡単ですが、日本で一度組み立てて、それを分解して中国まで運んで、また現地で組み立て直すとなると、莫大な金額になります。私は、中国の機械メーカーがどの程度のレベルなのかわかりませんでしたので、念のために当時の常務で生産本部長であり、機械に詳しい阪西末廣君に調査を命じました。その結果、「塗布機は中国のメーカーでつくれます。プレスは中国では無理ですが、台湾のメーカーで安くそこそこのものができます」という返事でした。
 そこで、リスクは覚悟の上で中国と台湾のメーカーに発注したのですが、できますと返事した阪西君は責任上、機械メーカーとは何回となく詰めの打ち合わせをおこなっていました。これまで自分で何台もの塗布機とプレス機を発注し、運転してきた経験がありますから、その持てる技術、ノウハウを細かく指導したと思います。そして、われわれは経済的な投資金額で、積層板の製造設備を完成させることができました。これは阪西君の大きな功績であったと私は思っております。
 無錫電気と無錫化成の総経理を兼任して、長年、二つの会社の経営に努力しているのが、桝田泰弘君です。彼は、もともと化学技術研究所出身の技術者で、特にコンデンサ用のゴム張り積層板については開発当初から関係しており、この商品を世界シェア一位のグローバル・ニッチトップ商品にまで育てた功績者の一人でもあります。
 2002年に無錫電気の総経理に就任してから今日まで20年近く、電気と化成のリーダーとして現地で頑張ってくれております。そして2021年に彼は利昌工業の取締役に就任しました。




【はんだパレット リコセル】

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◆世界30か国以上へ
 はんだパレットに使われる「リコセル」という商品があります。
 はんだパレットというのは、プリント配線板に半導体などの電子部品を仮留めしたあと、自動はんだ付け装置に投入する時の治具で、200℃を超える溶けたはんだの上を通過します。パレットは何回も使いたいので耐熱性がポイントになりますが、当社の高耐熱エポキシ樹脂を使ったこのパレット材リコセルは、他社材と比べ品質優位性があり、売上が順調に伸びています。



 プリント配線板の部品実装の需要は海外のほうが多いので、リコセルは海外事業部の売上が8割を超えます。海外事業部がリコセルを販売している国をあげますと、台湾、韓国、中国、タイ、ベトナム、フィリピン、シンガポール、マレーシア、インドネシア、インド、アメリカ、カナダ、メキシコ、ドイツ、フランス、オランダ、イタリア、ポーランド、スイス、ハンガリー、スロバキア、スロベニア、イギリス、アイルランド、チュニジア、フィンランド、デンマーク、オーストラリア、ブラジル、スペイン、チェコ、ロシア、エストニア、ラトビアなど、世界30ケ国を超える国に販売しております。




本稿は、利昌工業株式会社取締役名誉会長 利倉晄一が社内の会議等で、発言したことを社員が記録したもので、社内報に掲載したものを一部転載させて頂きました。