一隅の経営 140
RISHO NEWS237

利昌工業株式会社 取締役名誉会長

利 倉 晄 一

 

    

【滋賀県の山林のこと】

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福井県との県境に47万坪の山林

 ☆利昌工業は、滋賀県と福井県の県境(昔の朽木村、現在の滋賀県高島市朽木)に、47万坪(155万平方メートル)におよぶ山林を持っています。



◆強化木
 戦争中に金属が不足したため、その代替として強化木を飛行機のプロペラや構造材の一部に使いました。利昌工業は木材を薄くスライスした単板にフェノール樹脂を含浸し、それを何枚も重ね、高圧でプレスして作る強化木の技術を持っていましたので、強化木を軍に納めていました。



◆大木を求めて
 この強化木の原料となる木材を確保するために山林を買ったわけです。そういう目的ですから、最初から大木がたくさん生えている山を買いました。何故なら幅の広い単板をとるために太い木を必要としたからです。ブナの大木がある山林でした。
 
◆木を売る
  戦後、強化木は不要になりました。山をどうしようかという問題を抱えていたわけですが、地元の村人から「早く木を切り出してほしい。そうしないと、成長した木と木が擦れあって山火事が起こる可能性がある」と言われました。
  先代から、「お前何とかしろ」と頼まれました。私が1951(昭和26)年に入社して、すぐに取り組んだ仕事という記憶があります。
  私は知人を介して、山の木を切って、買ってくれるところを探してほしいと依頼しました。山を売るのではなく、木だけ売ろうと考えたのです。
 木を欲しがる製紙会社にあたってくれましたが、うまく行きません。戦後の慌ただしい時代で、そこまで手がまわらないとか、木が大きく、しかも山に道がついていないため搬出に時間と金がかかるというのが大方の理由でした。

◆12年かけて伐採
 2年以上たって、ようやく手を挙げてくれたのが王子製紙でした。すぐと言われたらできないが、ある一定の期間、10年は見てほしいと言われました。そして1956年に、1966年までの10年契約を締結しました。内容は、利昌工業の所有する山林(公簿記では13町5反)の地上に存在する立倒木一切を100万円で購入する。伐採搬出期間は10年間とする…となっています。
 ところが、10年たっても全部切り出すことはできませんでした。2年間延長して1968年までかかりました。その時には、すでに先代は亡くなっており、父に報告できなかったことは、私にとって残念なことでした。

◆50年の植林事業
 木を切り出した後、山林はしばらくそのままになっていましたが、そうこうしているうちに、琵琶湖総合開発特別措置法(1972年)によって創設された「びわ湖造林公社」から、植林を一緒にやりませんかという話があったのです。
 滋賀県は琵琶湖を抱えていますから、治水には気を使います。山に植林をしなければ、大雨が降った時に土砂が流れ出し、麓の琵琶湖の水を汚します。他の県より植林には熱心で、そういうことも含めた総合開発特別措置法であったと思います。われわれにとっては幸いなことでした。
 当社と、びわ湖造林公社の間で1976年に契約を交わしました。今度はブナではなく、売りやすいスギとヒノキにしました。成長して伐採可能になった段階で利昌40パーセント、公社が60パーセントの取り分という契約ですが、成長するのは50年先という遠大なロマンです。当時の契約書には、存続期間は契約の日から昭和101年6月29日と記されています。

◆山を活かす
 昭和101年は、西暦2026年ということになりますが、国の方針にもかなう造林ができて良かったと思っています。
 なお、びわ湖造林公社は、現在は滋賀県造林公社という名称になっています。当社の総務課のスタッフは、定期的に公社の人の協力を得て、ポイントとなる木を決めてプロット調査を実施しています。



 ここの朽木(くつき)という地名は、訪れる人もなく木も朽ちるところからついたと聞いています。
 しかし、今では福井県に通ずる道も完備され、森林浴のハイカーの姿も見られるほどになっており、山の価値も上がり、山を活かすこともできたのではないかと思っています。




本稿は、利昌工業株式会社取締役名誉会長 利倉晄一が社内の会議等で、発言したことを社員が記録したもので、社内報に掲載したものを一部転載させて頂きました。