■9代将軍 足利義尚公
利昌工業の滋賀工場がある栗東市下鈎(しもまがり)は、京都の方が「こないだの戦争」と呼ばれる「応仁の乱」の後のほんの一時期、足利将軍の幕府が置かれた地です。
足利将軍といえばドラマや教科書に出てくる尊氏、義満、義政、義昭あたりが有名ですが、この地に陣幕を張ったのは9代将軍の義尚(よしひさ)です。全国的には知名度がいまひとつですが、甲府や鹿児島の方が、ゆかりの人物を「信玄公」「南洲公」と呼ぶように、当地ではもちろん「義尚公」です。義尚公をフィーチャーした武者行列が催されたおりには、滋賀工場のスタッフがこれに扮したこともあります。
義尚公の父は銀閣寺で有名な足利義政。母は「日本三大悪女」のひとりとされる日野富子です。
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■六角征伐
応仁の乱のあと、幕府の権威は失墜していわゆる下剋上の時代になります。近江の守護大名であった六角高頼も、公家や寺社の所領に狼藉を働いたため、義尚公は滋賀工場の近くに征伐の陣(鈎の陣)を構えたのです(長享・延徳の乱)。
話が脱線して恐縮ですが、この「六角」はいわゆる「屋号」で本姓は「佐々木」。「宇治川の先陣」で有名な佐々木四郎高綱もこの一族です。全国におられる佐々木さんも、この一族に由来される方が多く、佐々木氏発祥の地とされる近江八幡市の「沙沙貴神社」(安土町)には、大勢の佐々木さんが詣でられます。
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■将軍自らが出陣
応仁の乱の原因のひとつは、義政の後継問題。嫡子の義尚公はまさに当事者です。さらにあろうことか義政は、その乱の真っ最中に将軍職を放り出して義尚公に譲り、自身は風流の道へ逃避します。このおり義尚公わずか9才。母の富子は義尚公に代わり、鬼にも蛇にも、それこそ悪女にもなって、ようやく乱を収めたわけです。
そんな世を乱すものが現れたのですから、幕府の威信にかけて、自らが征伐の陣頭に立たれたものだと推察します。このおり義尚公22才。
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■鈎幕府
将軍の居所を「幕府」と呼ぶことがあります。信長や秀吉の居所が「安土幕府」や「桃山幕府」とされないのは、右大臣や関白ではあっても、征夷大将軍ではなかったからです。
いっぽう義尚公は征夷大将軍。あわせて内大臣ですから「いとやんごとなき」人です。それゆえ鈎の陣(鈎御所)には三管四職に加え、公家や僧侶も参内しました。滋賀工場の近くにあり、周囲に土塁が残ることから鈎御所跡に建つとされる永正寺の周辺は、室町の「花の御所」と同じ光景が見られた「鈎幕府」の地であったわけです。
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■わずか1年半
義尚公は志半ばで陣中に病没。鈎幕府がおかれた期間はわずか1年半(1487年10月〜1489年3月)でした。富子は病床を見舞い、亡骸を引き取りに訪れています。義尚公が戦勝祈願したお地蔵さんは、上鈎の寺内(じない)という集落に受け継がれ、毎年8月には「地蔵盆」が行われています。
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【参考文献】
『わがまち治田街道みちしるべ』 平成9年3月刊
治田学区心をつなぐふるさと創生事業実行委員会 著
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