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HOME > 会社案内 > 利倉駒二郎 創業の精神

利倉駒二郎 受け継がれる「創業の精神」

利倉駒二郎

▲創業当時の利倉駒二郎

■創業の時代背景

 1921(大正10)年10月10日、利倉駒二郎(当時27才)は大阪市東区鎗屋町(現在の中央区)に「利昌洋行」を設立して、電気絶縁材料業をはじめます。これが利昌工業の創業です。

 さまざまな電気製品に囲まれて快適な生活が送れる現在とはちがい、当時は初めて灯った電灯の明るさに驚き、それが家の中で唯一の電気製品であるといった時代です。

 各地の実業家や有力企業は競って水力発電所を建設します。当時は新設された水力発電所の数だけ「電燈会社」があり、あまった電気で副業に電車を走らせるという例もありました。

 電力・電気産業は将来を嘱望されたニュービジネスであったといえます。

 

 

■創業の理念

 しかし、発電所に設置された発電機や変圧器は、ほとんどが輸入品で、それらに使用される絶縁材料もまた外国製でした。

 そこで駒二郎は、電力・電気産業の発展と表裏一体の関係にある絶縁材料の開発とその国産化は、国策にもかなう事業であると確信し、生涯をかける仕事に選びました。

 ただ、当時の絶縁材料は、桐油、大理石、雲母といった自然物ゆえに品質のバラツキが大きく、その材質に対する体系的な認識すら確立されていないような状況でしたので、利昌洋行は絶縁材料の研究・開発機関のような格好でスタートしました。

 商売というには、いささか型破りなスタイルではありましたが、これは駒二郎が独自の技術で新しい道を切り拓くことを創業の理念としたからでした。

 

絶縁コンパウンド

▲各種絶縁コンパウンド

■絶縁コンパウンドの開発とヒット

 駒二郎が最初に手がけたのは、絶縁用コンパウンド(瀝青混和物)です。

 これは雲母や石英といった鉱物、桐油、亜麻仁油、大豆油などの植物油、シェラックやコーパルといった天然樹脂、それにアスファルト(瀝青)などを組み合わせた粘度の高い液状または固形の絶縁材料です。

  絶縁耐力に優れ、接着力と耐水性も兼ね備えることから、変圧器やモーターのコイル絶縁、導線引き出し部の充填用、あるいは蓄電池・乾電池の充填用などに幅広く用いられていました。

 駒二郎は用途に応じたコンパウンドという点に着目し、用途別に微に入り細を穿つ26種類ものコンパウンドを開発、3件の特許も取得しました。

 こうして利昌洋行のコンパウンドは8割の市場シェアを誇るとともに昭和30年代まで40年間にわたるロングライフ商品となりました(現在は製造しておりません)。

 

コンパウンド試験機器

▲駒二郎が開発したコンパウンド試験用器具。試験方法はJIS K 2207に採用されました

■試験方法の確立

 顧客に安心して絶縁材料をご利用いただくためには品質保証が大切ですが、当時はまだ、その認識すら定まっていないという状況でしたので、駒二郎はコンパウンドの試験方法や試験機器についても自ら開発することを余儀なくされます。

  そして多くの試練を乗り越え、数々の試験装置や試験方法を考案しました。

 その労作のひとつである「環球式軟化点試験法」は、戦後コンパウンドのJIS規格が制定された際(JIS K 2207/石油アスファルト/1956年)、この試験方法がそのまま採用され、現在に至っております。

 

 

 

 

 

 

 

 

■フェノール樹脂積層品の輸入

ハーフェライト

▲苦難の末、輸入に成功したハーフェライト(板/棒/管)。電機各社より歓喜の声で迎えられました。

 コンパウンドを軌道に載せた駒二郎は、フェノール樹脂に着目します。これは1907年、ベルギー生まれの化学者ベークラント博士がフェノール(石炭酸)とホルマリンを反応させることにより発明した、世界で最初の合成樹脂です。

  1909年に「ベークライト」という商品名で工業化され、日本では消化薬タカジアスターゼの発見で有名な高峰譲吉博士の紹介を受けた三共合資会社(現・第一三共株式会社)が最初に試作を行うと同時に輸入販売を始めます。

 同じ頃、駒二郎もフェノール樹脂の絶縁材料としての可能性を見抜き、その材質や製法をつきとめようとしていました。世界的な発見や発明が瞬時にネットで公表される現在とはちがい、情報の収集は困難を極めましたが、1925(大正15)年、スイスのエミール・ハーフェリー社との特約に成功し、同社のフェノール樹脂積層品(商品名はハーフェライト)の輸入にこぎつけました。

  ベークライトより安価で提供することができましたので、ハーフェライトは当時三共の独占であったフェノール樹脂製品の入手難に苦しむ電機メーカー、とりわけ阪神地区のメーカーに歓喜の声で迎えられました。

 

■フェノール樹脂積層品の国産化

利昌洋行絶縁物工場

▲利昌洋行 絶縁物工場

 1928(昭和3)年2月、駒二郎は単身ヨーロッパに向けて旅立ちます。エミール・ハーフェリー社の研究室でフェノール樹脂の研究に没頭するためです。 研究生活は二ヶ月にわたりました。

 帰路ドイツ、フランス、アメリカの業界事情も視察、フェノール樹脂ならびに電気絶縁材料の将来性に確信を深めましたので、帰国後ハーフェライトの売り込みに、さらなる努力を重ねました。

  しかし軍靴の響きが大きくなるにつれ、輸入品の販売は困難になりました。そこで駒二郎は多年の夢でもあった、フェノール樹脂積層品の製造を決断します。

 大仁(現在の大阪市北区大淀)に「利昌洋行研究所」と「利昌洋行絶縁物工場」を新たに建設し、研究所には個人企業としては例を見ない実験設備をスイスから輸入して据え付けました。

利昌洋行研究所

▲利昌洋行 研究所

 そして1935(昭和10)年長年の夢であったフェノール樹脂積層品の国産化を実現しました。

 このフェノール樹脂積層品は現在でも製造しており、国内で大きなシェアを占めております。

 

■受け継がれる創業の精神

  利昌工業は「研究開発型企業」を標榜しておりますが、これは90年後の研究員にまで連綿と受け継がれる創業の精神であります。

 

 

 

試験装置

▲120キロボルト試験用変圧器(手前)と150キロボルト衝撃電圧発生装置